やせがえる

RX-82008-10-08

庭に数匹のカエルがいる。
いつも同じところに、いる。
出勤時、クルマを出すときに、轢かないように気を遣う。
痩せがえる、そんなに痩せていて、冬を越せるのかと心配になる。
 
まぁ、カエルの心配をするより、たまには自分のことも良く考えるべきだ。
 
「人の気持ち」は理解することも理解してもらうことも難しい。
伝えたつもりで、わかってくれていると思っていることが、ぜんぜん違うことがある。
どれだけ気持ちを込めて伝えていると思っていても、伝わっていないことがある。
どれだけ長い期間、言葉のやりとりがあっても、伝わっていないことがある。
 
それとは逆に、わかっていると思っていても、わかっていないことがある。
わかっている筈なのに、わかろうとしないこともある。
 
「人の気持ち」がわからないとき、落胆は激しい。
しばらく立ち直れないくらい激しい。
 
的確なキーワードで伝え合わなければ、噛み合わないのだろうが、そこに迷うことが往々にしてある。
そして、だいたい後悔することは、噛み合わないことよりも「迷うこと・迷ったこと」のほうである。
つくづく、自分のコミュニケーション能力の無さと、優柔不断さを痛感するのだ。
 
ふと、自分は迷いっぱなしであることを、「不惑」を目前にして、思う。
 
「定着」も「安定」も、自分の中には無く、一つ所に居ないで、走り続けたいとばかり思う。
焦りとはちょっと違って、現状の自分に納得する・満足することができないのだ。
いったいいつになったら、自分は一人前になるのか、まったく見えない。
(そもそも、20代の頃から一人前の定義が出来ずにここまで来ているのだが)
 
庭のカエルは、迷わないのだろうか。
こんなに寒くなってきて、冬を越す準備はできているのだろうか。
痩せがえるでも、「一匹前」ならば羨ましい。
 
冬眠はいつからするのか?
キミが居なくなったら、なんだか寂しい気がする。
そして来年、暖かくなってキミが無事出てきたら、嬉しいけど悔しいよ。